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「人生理念」
人生とはなんだろう‥
僕たちは無限の中の有限を生きています、いや生かされているのかもしれませんが、では、一体、生きるということはどういうことなんでしょう?人生とはなんでしょう?
僕は在日韓国人として名古屋市中村区に生まれ日本社会で育てられました。普通に日本の学校に行き、日本名(通称名)を名乗り普通に大きくなりました。
その過程において、日本社会のなかで普段は異質性を感じてなかったのですが、ふと冷静になってみると戸籍は韓国であって異質なわけです。
日本での選挙権も、被選挙権もありません、けれど韓国に行ったこともないし、学校の友人は、僕のことを当然に日本人であるとして接してくるわけです。
これはあたりまえですよね。
日本語しか喋れないし、当時は日本名ですから。
そして、なぜか自分の祖父母は韓国から来たということが友達に言えないんですね。
今だったら、社会も変わりましたから、もっと言いやすいかもしれませんが。当時は言いにくいというか。そこで、自分とは一体なんだろうと考えてしまうわけです。

「僕ってなに」という小説がありましたが、あの世界です。
そこで、自分とは何か、自己とは何か、わからない、わからないと考えつづけているうちに、では、生きるとは何か、人生とは何か、にたどり着いたんです。
もちろん、当時はこれもわかりませんし、答えが見つからないのです。その答えが自分なりに出ないまま時だけは流れましたが、自分の心はいつまでたっても悶々としてスッキリと社会生活が営めないのです。
26歳で韓国へ‥答えを探しに。
これは答えを見つけに旅にでなければいけない、自分探しの旅に出なければいけないと思い、旅に出るんなら、やはり、問題の発端である韓国に行かなければと考え、26歳で生まれてはじめて韓国に語学留学という形で行きました。
韓国では、ソウルで1年3ヶ月ぐらい暮らして、いろんなことを一杯吸収して、また名古屋に帰ってきたわけです。
韓国で、ようやく自分なりに得たのは、人間はみんな一緒ということであり、生まれてくるときは裸だし、去るときも裸だというあたり前の事実です。
20代後半で、ようやく気付いたわけです、このあたり前のことに。つまり、国籍だ、民族だ、人種だ、肌の色だというのは人間が便宜上勝手に作ったものなのです。
食って、寝て、起きて、唄うたって、働いて、休んで、という日々の営みは人間みんな同じなんです。
自分のル−ツは朝鮮半島かもしれないし、もっと先のル−ツはモンゴル、中国かもしれない、大昔は日本に渡来人というのがあったようにル−ツによって人の価値は左右されないのです。
みんなそれぞれに祖先がいますし、祖先は尊重されるものです、祖先の違いによって人の価値を左右するのはおかしいと気がついたのです。
祖国留学が教えてくれたもの‥
長い旅でした、回り道だったかもしれません、でもこの回り道が僕には必要だったんです。
こうして、僕とは何かという自分探しの旅はすばらしいものを僕に与えてくれました。自分というアイデンテイテイを明確に僕に植え付けてくれました。
そして、もっと大きな問いかけでありました「人生とは何か」「生きるとは何か」ということに対して、この韓国の旅は、僕がようやく辿り着いた「答え」をだす手助けをしてくれました。
その辿り着いた答えは非常にシンプルなことです。何でもそうですが、最後はシンプルに考えるのがいいのかもしれません。次のような言葉です。
生きるということは「幸せ」を感じることである。
人生とは「幸せ」を感じるための旅である。
今では、この言葉が、僕の生きる根幹であり、僕の人生の理念です。
「道」
僕は中学生の卒業式のとき、卒業生から在校生に対する贈る言葉として卒業生代表の答辞を読みました。
このとき僕は巣立っていく自分の今の気持ちを正直に答辞として読みたいと思い、先生に前例がないといわれたけれど、高村光太郎の「道程」という詩を答辞の一番最後に読みました。
「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる・・・」という詩です。
当時、本当にこの詩に感動しており、その後の僕の生き方に強く影響を与えている詩です。
だから今でも、道は初めからあるわけではなく、最初に通った人がいるから、やがて、そこが万人に利用される道になり、社会にとっても役立つ道になるんだと信じています。
それが今の僕のモット−になっています。
「時間」
生まれた家が裕福であれば、相応の教育を受けることができ、相応に安定した生活ができます。
資産があれば、たいして働かなくても生きていくことができる人もいることでしょう。生まれついた家庭がたまたま裕福であったり、資産家であったり、生まれつきの不平等が多いのがこの世の中です。
スタ−トラインは同じにならないものかと思うのですが、これはなかなか難しいです。
でも、ひとつだけ万人に平等に与えられているものがあります。
それは「時間」です。
寿命はあるにしても、1日24時間という長さは、万人みな24時間です。裕福な人だけ30時間ということはありません。
ですから、僕は時間を大切にします。自分の時間も、相手の時間も大切にします。
「信頼」
人と人が社会を構成しています。
その社会のなかで、人と人との関わり合いの中で、ある取り決め事項とか、約束事とか、見えない「ル−ル」というものが醸成されます。
それを誰にでもわかるようにと明文化されたものが「法」だと思います。
社会状況に応じて「ル−ル」はかわっていくものだと思いますし、「法」として定められていない「ル−ル」というのもあります。
「法」に明文化されていないからといって、その見えない「ル−ル」を無視していいというものではありません。
逆に、「法」に明文化されていても、社会に対しても、人に対しても、不利益を及ぼさない或いは信義を踏みにじらないのであれば、全て「法」に従うこともないのではないか、と思います。
その判定は非常に難しいと思うのですが、その拠り所は、「最後は、人と人との信頼関係にある」と思います。
ですから、僕は人と人の信頼関係を非常に大切にしています。
「家族」
僕は、妻と娘2人の4人家族です。
妻は、ある意味で運命共同体であり、幸せを感じるための旅の同伴者です。
しかし、子供は違います。
ある時期がきたら、巣立たせなければなりません。あどけない寝顔を見ていると、ずっと一緒にいたいと思うのですが、親の役割は「ひとり立ち」させることにあります。
その飛び立つまでの期間を自分が預かってトレ−ニングしているにすぎないと私は思っています。
そして、巣立った後は、「立」ち「木」の陰でそっと「見」守ります。文字通り「親」となるのです。

子供の進む道には何も願望はありませんが、子供自身には、
夢を持つ人であってほしい、涙する人であってほしい、頑張る人であってほしい、感謝する人であってほしい、和を大切にする人であってほしい、
と思っています。
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